いのちの歌

昨日は「うどん県」こと香川県へ、

友人のオペラ歌手である、村山岳さんの演奏会に行って来ました。

5月に東京で「お別れ会」してもらって以来の再会

送別会記事↓

あわせて読みたい

岡山の実家から車で瀬戸大橋を渡り、

途中、瀬戸大橋の真下にある与島パーキングエリアへ寄って、景色を眺めて・・、

お昼はおうどんを頂いて、

トークも楽しい岳さんのライブを満喫して帰りました

素敵な歌が沢山あった中で、初めて聴く「いのちの歌」は

涙が堪えきれなくなりました。

歌詞だけでなく、岳さんの歌声からも、内側から、涌き出てくる物がありました。

実はこの3ヶ月で、人間だけでなく、ペットも含みですが、4つの魂の、生と死に対面しました。

それとは関係なく、私自身も手術になって、

手術中は体力が尽きてしまって、「疲れた、もう駄目かも」って、

自分が死ぬことを意識した体験もしました。

今はピンピンしてるのにね(;A´▽`A

そんな、ここ3ヶ月の間で起きた体験が、あの瞬間、一度に思い出されて、

全部知ってるよって、受け入れてもらえた気になって。

1つ、一番最近の出来事で、お伝えしたい事があります。

ペットの話になってしまうのですが、

ブログやFacebookなど、何度か登場した事のある愛犬ショパンのことです。

そうそう、ニコ生にも一度出演した事もありました。

そのショパンが、一昨日、午前3:30に、亡くなりました。

15歳6ヶ月でした。

最後は、一晩中、横についていた母の傍で、

一度だけ吠えて、

静かに、本当に、眠るように、

亡くなりました。

食欲は旺盛で、最後の晩ごはんのドッグフードだけ拒否して、

そろそろかなと思ったら、

そのまま亡くなりました。

最後にFacebookに載せたショパンの写真が、豪華なご飯を食べてる写真でしたね。

ペットロスというか、今は本当に悲しいのですが、

一生懸命、楽しく生きた、ショパンの死から感じているのは、

今そばにある命を、大事にしていこう、

いっぱい彼らと笑って過ごそう。

ショパンの話題の度に関わってくださいました皆様、ありがとうございました。

昨日の岳さんの歌にも励ましてもらって、

やっぱり生の音楽の力って凄いです!

周りの人や、全ての物に支えてもらって、しっかりと、前へ、前へ、歩んで行こうと思います。

♪演奏会情報♪

2016年10月14日(金) Open:19:30 Start:20:00

会場:サラヴァ東京(渋谷)

スペシャルゲスト:ピアニストYuri

チケット:3000円1d付き!(当日券は3500円1d付き)

予約→http://l-amusee.com/saravah/reservation/postmail.html

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この記事を書いた人

ピアニストユリ
岡山県倉敷在住のピアニスト
ロシア国立サンクト・ペテルブルク音楽院卒
4人のママ
出演依頼、レッスン等、HPお問い合わせページからお願い致します

コメント

コメント一覧 (14件)

  • お察しします。

    それは本当に心身共に大変な時期でしたね。

    ご家族の事がありながらも自分の身体の事とも闘うというのは相当しんどかったのではないかと思います。

    こうしてブログを書けるようになれた事が少しでも色々な事が癒えているようならいいなと心から思います。

    今はもう少しゆっくり休んでもらいたいと思いますが、来月のライヴもあるので気が焦るかもしれませんが考え方をちょっと変えて自分的にやらなければならない事として別の事を考える時間も必要だと思いますのでそこはYuriさんのペースで決してやり過ぎず、頑張ったり頑張らなかったりするのがいいかと思いますので、頑張ったり頑張らなかったりするのを頑張ってくださいm(_ _)m

    うまく言えませんが無理だけはしないように気をつけて下さい。

    結局これしか言えませんが、

    応援してます‎╭( ・ㅂ・)و

  • Unknown

    そうでしたか。ショパンは長生きできて

    よい家族と暮らす事ができましたね。

    ニコ生で楽しそうにしてたショパンの姿が

    思い出されます。

    ゆりさんの手術は無事に終わったのですね。

    焦らず養生してまた素敵な音楽とトークを

    聴かせてください。

    村山さんもニコ生に引きずり込んでくれたら

    うれしいなぁ。

  • Unknown

    ありすぎなくらい、色々あったんですね。

    でも、生きるってそういうことなのかな、とも思います。

    俺で良ければいつでも犬になります。

  • ゆりさん車運転するの?ちょっと驚き(^^)

    いろいろと思う事はあるけど、今は良い笑顔が出る様なので良かったです(^^)

  • いつも傍らにmemento mori

    ああYuriさん、いろいろな事があったのですね。

    死とは生きとし生けるものにとってこれ以上ない問題。

    ご自身もその淵に立っていたなんて、、、

    今はピンピンしてるとのことですが、そうですね、死とは時に不意に我々を襲うもの。

    最近の自然災害や世界の出来事を見ていてもその事を意識してしまいます。

    地球46億年という時間すら、明日のたった一日をも保証していないということを考えてみると

    明日の未来というものはとってもとっても何と言うか、不思議できっと本来得難いものなのでしょうね。

    また心臓がただの一秒も止まらず鼓動し続けている事が大変なことに思えてきます。

    ご自身のものとそして周りの生と死、それらを通して感じたものは

    人としてはもとより、何かを伝える立場にある者としても大切な宝物。

    涙が堪えきれなかったというのは

    実際に精神と肉体を通してきたものとその時の体験が結びついたからであり、

    それが本当に分かるあるいは知っているということなのだと思います。

    ブッダは苦行の旅の中である時、弦楽器を弾く人の姿を見て

    楽器は弦を強く張りすぎたら切れてしまうし、緩ませすぎたら音がでない

    つまり中庸(ちゅうよう)の道こそが真理じゃないかと悟ったんですが、

    その悟りも苦行の中にあったからこそブッダの中で経験的につかむことができたのだと思います。

    最終的には否定してしまうんですが、

    両の極を知っていなければそもそも中庸なんてものは分かりようがないという事です。

    その悟りにたどり着くにはそういった苦行の体験が必要だったという訳ですね。

    そして、そのようにして知るということは同じ様な境遇にある人の事が分かる、

    かける言葉を持っているという事だと思うのです。それは素敵なことですよね。

    何だか坊主の説教臭くなってきましたが(笑)、

    ブッダのこの話は僕も好きな話なんです。

    最後になりましたがショパンは残念でしたね。

    そしてゆりさん、生きていてくれて本当に嬉しいです。(←しかしリアルな言葉だなあ)

  • Zeroooothさんへ

    Zeroooothさん、優しい優しいお言葉を、ありがとうございます。

    はい、頑張らないことを頑張ります♪

    来週はライブですね^^

    お会いできますか?

    久しぶりにお会いできます事、

    ステージに立てること、

    東京に行けること、

    すべて楽しみにして向かいます♪

    優しいZeroooothさんも、どうかお体に気をつけてお過ごしくださいね。

    素敵なコメントをありがとうございました★

  • やさぶろうさんへ

    やさぶろうさん、コメントをありがとうございます!!

    また、シャパン登場のニコ生を覚えていてくださって、

    本当に感激です!!

    大きな声で吠えていましたよね^^

    私はもう順調です!!

    村山さん、ニコ生に登場したら面白いだろうなぁ~♪

  • 184さんへ

    184さん、コメント嬉しいです!!

    ありがとうございます^^

    わぁ、是非是非イヌ役お願いします!!

    待ってね、他に、キジを猿も用意しなきゃね★

  • ぽん・・さんへ

    ぽん・・さん、コメントありがとうございます!!

    はい、免許はミッションでとったのですよ、18の誕生日月に♪

    今は毎日楽しく、忙しく、賑やかに生活しております。

    今年は台風が東北にも及んで、大変な時期でしたよね。

    ぽん・・さんも、ご自愛くださいね♪

  • ジュンリーさんへ

    ジュンリーさん、コメントありがとうございます!!

    もう、何度も何度も読み返して、正直、毎日一回ずつ読んでいましたw

    仏陀の言葉は凄い・・。

    私は話下手なので、上手く説明できないのですが、このジュンリーさんのご感想や、仏陀の言葉は自分の中にピンポイントで来たのもあれば、なるほど!と答えに導いてくれました。

    最近、私、食生活をガラッと変えまして・・

    ジュンリーさん、

    マクロビオティックってご存知です?

    来週も、その料理教室に行くのですが・・^^

    そのマクロビオティックで、よく使われる言葉が

    「中庸」なんです!!

    食べ物には「陽性」と「陰性」があって、どちらもちゃんと摂ることによって、中庸にする事が大切だって学びました。

    まだ勉強途中ですが。

    だから、ジュンリーさんの書いて下さった仏陀の教え、

    もっともっと知りたいし、理解し、学んでいきたいな♪

    とても興味を引き付けられたジュンリーさんからのコメントでした!!

  • ヒロガルセカイ

    何度もコメントを読んでもらえてるなんて、

    コメントしてる身としてはこれ以上ない言葉!!

    よぉし調子乗ってこの話もう少し広げちゃおうかなw

    その前に、マクロビオティックは初めて聞いた言葉です。

    でも!調べてみたらこの身でよ〜〜く知ってる概念でした。

    実はうちの母親が昔から食生活は重要という考えを実践していて、

    食べ物によって体が酸性に偏ったりアルカリ性に偏ったりするとか

    言っていたような気がします。

    実際うちでは小さい頃から玄米食であったし、今でも野菜、海草類は摂れと

    顔を合わせる度に言われますw

    そして陰と陽のバランスというのは正に「中庸」の考え方ですよね。

    この世界には、生と死、有と無、光と闇(西洋的)、陰と陽(東洋的)、創造と破壊、

    はたまた中々意識できないところでは、

    我々が眼前の世界が「見える」というのは、残りの全世界が「見えない」ということ

    つまり、目の前の事象が見える為にはその他のものが見えてはならない

    (今Yuriさんがpcの画面が見えているというのは、同時に隣の部屋の様子が見えてはならず、

    倉敷駅前の様子が見えてはならず、さなゑちゃんの部屋の様子が見えなく、

    ブラジルの様子が見えなく、火星の様子が見えなく、中でもとりわけ見えてはならないものがあって

    それは眼球の内部とか視神経の内部とか見える事を成り立たせている経路そのもの)というように

    実はおびただしい「見えない」という事が目の前の微小な「見える」世界を支えている。

    このように意識しづらい部分も含めて、あらゆる相反するものが向かい合って支えている

    というのがこの世界の在り方であるというのはとても興味深い重要さを持っていると思います。

    ゆえに「中庸」を知るというのは中々凄いことであるかも知れませんね。

    今回のようにこの「中庸」の言葉が連鎖を見せたというのは

    これはもう正に勉強する時が訪れているのじゃあないですか?w

    中国の古い言葉に「その段階に達したら、師というのは自ずと現れる」

    というようなものがあるのですが、

    これは、本当は常に周りにあったものが、意識がFocusされていること(つまりこれが段階に達するという事)で

    気付くことが出来るということを言っているのかも知れませんね。

    実は僕も昨日古本屋でとある本を探している時に、

    パッと「中庸」というズバリなタイトルの本が目に入ってきたのです!

    いつもなら視界を流れていったであろうものが、Yuriさんとのコメントを通して

    Focusされていたことにより目で捉える事が出来たという事が言えるのではないでしょうか。

    それでこれは儒教に関する本だったのですが、孔子も中庸という事について考えていたようですね。

    当然購入しました。

    僕も中庸に関して全く知っている訳ではないので、この機に勉強してみたいと思います。

    いあや、格別今回はコメントを通して僕も世界を広げられそうです。

    そのようにYuriさんの先の経験もoutputされることにより

    意味というものを周りに生んでいくのですね。

    こういう繋がりって素っ敵だニャア!ω(=^・^=)ω

    最後に中庸の考え方を拝借して。

    我々は良い事ばかり見ようとしがちだけれど、

    良い事も悪い事もどちらもあるからこそ人生というのは味わい深いのじゃあないですかね。

    両方あるというのが「豊かな」人生と言えるのではないでしょうか。

    まぁこれは後からでしか言えないことかも知れませんが。。。

  • 中庸ということを考えてみる

    僕がブッダの話で言いたかったことをもっと緻密に明確化しておこうと思います。

    まず、ブッダが中庸が良いだろうと言っているから、

    よし!じゃあおいらもちょっくら自分のタズナを緩めてみるかなっていう事ではないと思うんですね。

    中庸ってことがブッダの中で意味を持ったのはやはり

    自らの体でそう悟ったって事であると思うんです。

    それをパッと自分に適用してみてもそれではブッダの真意をつかんだことにはならない。

    そうではなくて、ブッダのこういった話を自分の中に持っておいて、

    そうしたらいつかフッと「ああ!こういうことか!」という風に感じる時が来るのかもしれません。

    やっぱり頭だけで取り入れようとするのではなく、体を通して考えるってことが人生には大事なことなんじゃないでしょうか。

    それがその人が自分の言葉を獲得していくという事だと僕は思っています。

    中庸という言葉の意味は僕も勉強が必要なので明言はできませんが、

    なぜだかこの世界は色んな事が二項対立の形をとっているというのは

    興味深いところですね。

    我々には知らず知らずのうちにそれに沿って考えてしまっている枠組みというものがあって

    その大きなものに西洋的な考え方、東洋的な考え方というのがあります。

    Yuriさんは身をもってご存知かと思いますが、欧米は個人主義であって、

    ご存知のように個人というのは英語ではindividual、これはdivide(分ける)することが出来ないという意味です。

    人間を分けて分けて分けられなくなった単位が個人ということです。

    このことからも分かるように欧米の考え方でとても重要なのが「分ける」ということなのです。

    西洋で発達した自然科学は、実験をしてその結果を分類し体系化していくというのがその方法です。

    それが分析ということですね。

    そして20世紀はこの「分けていく」方法が大成功して、自然科学と技術が結びついて

    我々が今日享受してる世の中が出来たということです。

    ちょっとこの辺りいくつか見てみましょうか。

    西洋の医術は悪い部分を見つけて、それを体から物理的に取り除いていく方法です。

    それが手術ですね。そしてこれは膨大な解剖をして、人体を分析した結果の上に発展してきたものです。

    対して東洋の医学は生命本来の治癒力を引き出そうというのがその考え方の根幹なのではないでしょうか。

    東洋医学に関してはほとんど知らないので間違ってるかもしれませんが。

    建築にもこの考え方の対立は見られます。

    ざっくりと西洋は壁の建築で東洋は柱の建築ということが言えます。

    それで壁と柱というのにはそれぞれ意味があって、

    お察しの通り、壁というのは空間を<分ける>機能を持っています。

    教会を思い起こしてみれば分かり易いですが、教会というところは

    外界と隔絶されていますよね。

    僕も海外に行くとよく教会に入るのですが、アイレベルに開口(窓)がなくて

    外の気配というものをシャットアウトしています。

    それでそういう場所で個人が神と対話せよというのが教会という場所ですね。

    僕としては、あそこは己自身と向き合う場所だなぁと感じたのですが。

    対して柱というのは、サバンナにぽつんと生えてる木を想像してもらえればいいのですが、

    その下にライオンなんかが寝転がっている風景が容易に浮かんできますよね。

    あの木が柱の意味なんです。

    つまり、ある空間に柱を打つと

    ↘︎ ↓ ↙︎

    → ● ←

    ↗︎ ↑ ↖︎   ※地面から水平に切って上から見た断面図。黒丸が柱

    こういう力が場に働くのです。分かるでしょうか。

    柱というのは何かそれに向かって引きつけられいくという力学を宿している。

    つまり空間に中心性というのが生まれるのですね。求心力と言ってもいい。

    だから、人間というのは塔を立てたり、タワーを作ったりする。なので柱は権威主義とも結びつき易いんです。

    これらの意味を大事にしている建築家は、意図的に壁と柱を分離させて設計しているのです。

    そして今の説明とは離れますが、柱の建築代表である日本の伝統建築を見て下さい↓

    http://www.asahi.com/special/08-09/gallery/090101kyoto/1049.html

    これはもう<融合>の世界の具現ですよね!西洋の<分ける>世界と真逆なのは分かってもらえると思います。

    自然と一体化したいという日本人の精神が見えますよね。

    建築の話随分リキが入ってしまいましたがwつまり東洋の考え方というのは、

    <分ける>に対して<融合>していくというところを大事にしているのです。

    西洋人が<分ける>世界で生きてるのに対して、東洋人は<融合>の世界に生きているという事を知っておくと

    いろいろな事を考えたり感じたりする上でとても示唆的に働いてくれると思います。

    双方の人間関係を見てみても分かり易いですよね。

    欧米は一人一人個人が立っていて、話し合いでまとまっている。

    一方、日本は以心伝心というのが好きで、なんとなく融合的にまとまっている。

    洋の東西でこの<分ける>と<融合>というのは顕在的にも潜在的にもよく出てくると思うんです。

    でここからブッダの中庸の話につなげると、

    楽器が弦を強く張りすぎると切れてしまい、緩めると音が出ないというのは

    これは普遍的なことですよね。

    インドではそうだけど、イギリスでは違いますというような事ではない。

    ここで大事なのは<分ける>考え方は普遍的な事柄を指向しているということ。

    つまり[私]がどう感じるというのとは切り離された、誰にとっても真実であるようなことです。

    ニュートンのリンゴみたいに誰が実験しても同じ結果が得られる事柄をです。

    その普遍の世界の事実からブッダは[私]の入った真理を導きだしたというところが面白いんです。

    それまでのブッダの生き方を全部背負って、それを背景にして「中庸の道こそ!」と言った訳です。

    これは普遍的な事ではないですね。

    人によって「いや、そうではない」ということが考えられるからです。

    実際、弘法大師空海などは弦を強く張るどころか、即身成仏なんていうものすごい荒行を選んだ訳ですから。

    だから、己の体を通して考えること、判断することが大事なのではないでしょうか。

    これでこの文章の冒頭につながってきたと思います。

    それで話をもう一歩進めると、

    [私]にとってどうこうというのは<融合>の世界の話になってくるということです。

    Yuriさんが3ヶ月間で体験した生と死というのは、

    <分ける>考え方で言うと「それは心臓が停止したからです」とかいう事になってしまい、

    これは説明として全く間違っていないのだけど、やはりそういうことではないですよね。

    [私]がああ感じてきた、こう感じてきたそれら歴史があるあの愛するショパンが!

    というところが非常に迫ってきていた訳であって、

    この[私]というのと切り離すことが出来ないところが大事な訳です。

    でもそれゆえに<融合>の死にずっと浸っていると、これは前に進めなくなりますね。

    どこに埋葬しようかとか火葬にするのかとかそういった<分ける>世界のことも考えていかなくては

    ならない。

    そういう風にどこか両方の世界が結びついていてバランスをとっている

    そんな事が言えるのではないでしょうか。

    <分ける>と<融合>というのは反対の概念だけれど、

    どちらが優れているというのではなくて、お互いにどこかで繋がっているということです。

    だから両方の視点から物事を見れるというのが理想なんじゃないですかね。

    それがすなわち「中庸」ということじゃないでしょうか。

    僕は今のところそういう風に理解していますが、

    ゆりさんもゆりさんなりの真実をつかんでいって下さいね。

    それには良い事も悪い事もあらゆる事が材料になり得るという事だと思います。

    さあコメントの範疇を大きく逸脱した分量になって来ましたねw

    ずらずらと書いてきた事を全部読んで頂きありがとうございました。

    またYuriさんにも考えがありましたら教えて頂けると嬉しいです。

  • 訂正

    空海が行った荒行は即身成仏ではなく即身仏というのが

    正しいようです。

    即身成仏というのは、その身のまま悟りを開き仏になる

    という概念のことを指すようです。

    失礼いたしました。

  • 中庸を考えてみる 最終章(仮)

    自分の書いた物を何度か見返してみるとどうしても<融合>の方を擁護する意見になっているように思われ、

    それは僕自身が<融合>の世界が割合に強いということと当然リンクしているのではあるけれど、

    やはり「中庸」ということを語るにあたってはなるべく中立の立場から

    双方をバランスよく語る必要があると思うのです。

    ということで、しつこいですが、今回は<分ける>世界の大事さについて書き加えてみたいと思います。

    実はそれを説明するとても分かり良いサンプルに思い当たったのです。

    僕がYuriさんに最初にオススメとして紹介した映画である、アメリカのまだモノクロ時代の作品

    『12人の怒れる男』という映画を例として取り上げたいと思います。

    この作品は犯罪を犯したとされる少年を審議する陪審員達の話なのですが、

    guiltyかnot guiltyかを話し合う彼らの立場は

    まさに<融合>の世界と<分ける>世界の上に立っていると言えるのです。

    つまり、彼らには有罪を主張せざるを得ない背景というのがひとりひとりにあって、

    とっても[私]というのとリンクした発言になってしまっている訳です。

    一方無罪を主張する人(というか有罪ということに懐疑的な立場の人)は[私]を切り離して<分けて>

    すごく冷静に分析的にひとつひとつの真実性というのを検証していこうとする訳ですね。

    でやっぱりこうした場合、[私]というのを込みにした<融合>の立場では

    どうしても見誤ってしまう危険性があるということです。

    自分も親しい誰かを殺された体験を持っていたとしら、

    そのことが前面に出てきてしまい、判断を狂わせるのは必定。

    そういった<融合>の立場の危うさというものが非常に見事に描かれています。

    あるいは『ゴッドファーザー』において

    息子サニーを対抗組織に殺されたビトー・コルレオーネ(マーロンブランド)は

    相談役のトム・ヘイガンに対して「復讐はいかん」という事を言う訳です。

    これは当然[私]を切り離した組織のボスとしての発言ですよね。

    組織での役割・ポストというのは<分ける>世界のものです。

    「割る」という言葉が入っているから分かり易いかと思います。

    この発言というのはやっぱりワンランク上(果たしてそう表現して良いものかどうか分かりませんが)

    のものだと思います。

    普通「あの野郎許さん!」っていうところを押し殺してのものですからね。

    長男のサニーの様に分かり易いのも僕的には憎めないなぁと思うのですが、

    やはり組織のトップとしては直情的ではまずくて、大局的に物事を判断出来なきゃならない

    ということだと思います。

    [私]というのとは一歩距離を置ける力というのが必要なのだと思いますね。

     ※そういう選択をできる人間の哀しさというのは僕にはとてもグッとくるのですよ。

      Yuriさんはどう感じるのでしょうか。

    ちなみに日本で忠臣蔵四十七士の仇討ちというのが大衆受けしている

    (※以前は毎年のように年末にドラマが制作されていた)というのは

    やっぱり日本が世界でも特に<融合>を大事にする精神的地盤があるからなんでしょうね。

    だからこれは非常に日本的な出来事だと思います。

    数人というのではなく、50人からの人間が仇討ちに向けてまとまるというのは

    他の国では有り得ないことなんじゃないかなぁ。

    以上のことから冷静な判断や、大局的な見方が必要な場合には、

    <分ける>世界の方に頭の中をシフトしていける方が良いと思うのです。

    で<分ける>と<融合>を果たして使い分けられるか?ということですが、

    僕はこれは意識して訓練すれば可能だと思うのです。

    だから両方の世界を体内に入れて置くというのがやっぱり良いんじゃないですかね。

    まぁ結論としては同じなんですが^^

    ちょっと自分だけで話をズンズン進めて行ってしまって申し訳ないのですが、

    中庸ということに関して合ってる間違ってるは別として、

    実例を出しながら自分なりに考えるというプロセスは見せる事が出来たのではないかと

    思っております。

    そう!まだこれは過程なのです。

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